コラム

公民館長時代に生涯学習だよりに掲載した物などを掲載しています。

容赦なき戦争

2005年に映画「男たちの大和」が封切られたときに、「えっ、日本はアメリカと戦争したの?」と言った日本の若者がいたそうである。

今年は戦後70年の節目の年で、先の戦争についていろいろ話題になることもあるだろう。勝てば官軍負ければ賊軍、負けた方はいつも残酷で卑怯で戦争の原因は負けた方のせいにされる。では、いったい先の戦争で米国等の連合軍は日本に対してどんな戦争をしたのか。 

「敗北を抱きしめて」の著者ジョン・W・ダワーが「人種偏見―太平洋戦争に見る日米摩擦の底流」という本でいろいろな記述を拾い上げている。(現在は「容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別 」(平凡社ライブラリー) として販売中)

「軽機関銃をひっつかみ、投降したばかりの無防備の日本兵を片端から容赦なく殺していった」「回想 太平洋戦争」(ウイリアム・マンチェスター)

投降しようとした日本の負傷兵を、オーストラリア司令官が「捕虜はいらない、全員銃殺してしまえ」と命令するのを目撃した。(軍事史家デニス・ウォーナー)

「いったい一般の人たちは、どんな戦いが行われたとおもっているのだろうか」
「われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のあるものを他の死体と共に穴の中に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置き物をつくるとか、または他の骨でペーパーナイフを作るとかしてきたのだ。」(1946年「アトランティック・マンスリー」太平洋地域担当従軍記者エドガー・L・ジョーンズ)

東京裁判は昭和天皇の誕生日である昭和21年4月29九日に起訴が行われ、死刑囚の死刑執行は今上天皇の15歳の誕生日である昭和23年12月23日に行われた。

広島と長崎の原爆投下も、木と紙でできた日本家屋を焼きつくすために焼夷弾を開発し、十万人の犠牲者があった東京大空襲はじめ、全国主要都市の無差別空襲による民間人殺戮も、裁かれることはなかった。

戦争に負けるということは正義も歴史も奪われるということである。戊辰戦争で賊軍とされ「米百俵の故事」で有名な長岡藩は「常在戦場」の精神で危機を乗り越えた。
戦後70年の節目を迎え、我々は既に次の戦いが始まっていることを自覚しなければならない。

ロシアのウクライナ侵攻を見ると身近に戦争が迫っているような気がします。2015年に生涯学習だよりに掲載したものです。

女性医師勤務サポート

7月7日、青森県の「女性医師勤務サポートシステム調査検討委員会」の委員を委嘱されて第1回の会議に出席してきました。委員9人のうち事務屋は2人、女医さんが5人、男性医師が2人です。委員会の設立趣旨は女性医師が出産・育児しながら継続して勤務できるようなサポートシステムを構築するということが目的です。

平成18年6月現在の全国の全年齢医師における女性医師の割合は17・2%で、29歳以下の医師では35・8%になっています。
特に産婦人科・小児科など医師不足が顕著な診療科で女性医師の比率が高く、結婚、出産、子育てを期に大学から離れ、主婦業に専念したり、開業したりする女医さんを引き止める手立てが有効なのは言うまでもありません。両親や祖父母の介護のために医療現場を離れる場合もあります。

勤務条件を緩和して、医療現場からの離脱を抑え、一度医療現場から離れた医師が職場復帰するための仕組みをシステムとして確立していく、ということです。

しかし、問題の本質は女医さんだけではありません。子育てや介護など直接的な事情のある女医さんならサポートして、独身女性医師ならば、夜勤も救急も男性医師並みにやるべきなのか?あるいは男性医師なら過酷な条件でも耐え忍ぶべきなのか?

実は医師だけではなくコメディカルと呼ばれる技師たちや看護師も含めて、病院と言う職場をライフスタイルに合わせた働き方ができる職場に変えていくことが継続的に人員を確保し医療を安定的に提供できる基盤になるのだ、ということです。

昨年4月にうちの病院に事務長として来たときに、入院病棟にテレビも冷蔵庫もなかったので、7月にテレビも冷蔵庫も入れ、今年は6月中にエアコンが入りました。さらに今年は国の経済対策を利用して内装や外装も手を加え、事務屋ができることは何でもやろうと思っています。

行政が自治体病院の存続に本気で取り組んでいる、という姿勢が医療スタッフのやる気に繋がり、患者への対応も改善される。そういう姿勢が医師確保への呼び水ともなり、医師不足解消にもつながり、単年度黒字化への近道なのだ、と信じています。

来年度医療ソーシャルワーカーと診療情報管理士を採用する予定です。
診療情報管理士はカルテ管理を進めながら、電子カルテ導入の中心になってもらい、医療ソーシャルワーカーは、看護部門におくか医事係においてそれぞれの仕事をこなしながら地域医療連携のシステムづくりを進める予定です。

どちらも事務員や看護師から育てていくべき職種かも知れませんが、町本体の一般行政職の採用も無い情況で病院が新たに事務職を採用するのは抵抗があるので、退職者補充の苦肉の策でもあります。

しかし、医療ソーシャルワーカーの募集をしてみると、社会福祉士や精神保健衛生士の資格を持った若い人たちが別な職について資格を生かしていない実情がわかってきました。

応募してきた受験生の「自己紹介書」などを見ると、医療、保健、福祉行政についてもしっかりした考えを持っています。

行政マンにとって一番重要な資質は「ヒューマニズム」だと自分は思います。弱者に対する優しい眼差しの無い人間は行政マンになるべきではない。

そういう意味では、一般行政職であっても中途半端な事務屋を採用するよりは福祉に思いのある、こういう資格のある学生を採用するほうが市町村の人材確保の方向としては正しいのではないか、と言う気がしています。

2009年、町立病院の事務長2年目の年にメールマガジン「頂門の一針」に掲載されたものから

日本精神(リップンチェンシン)

東日本大震災では、世界中の国々から義捐金が寄せられましたが、ずば抜けて多かったのは台湾からの義捐金です。金額は二百数十億円と言われていますが、記録に残らない民間の支援は今も続いており、どれだけになるかは分かりません。なぜ人口二千三百万人の台湾の人々はこれほど日本を愛してくれているのでしょうか?

 

台湾には「日本精神(リップンチェンシン)」という言葉があります。昭和二十年、敗戦で日本人が台湾から引き揚げた後、大陸から蒋介石が入ってきました。やってきた国民党軍の兵隊のレベル、モラル、腐敗の様子を見て、台湾人はそれ以前の五十年の、日本人が台湾で行った数々の建設、モラルの高さについて改めて思い知らされることになりました。

 

傲慢で鼻持ちならない日本の軍人もいたかもしれませんが、「日本精神」とは、台湾人が改めて見直した、勤勉、向上心、信頼、約束を守る、公徳心、そういった、台湾を愛し、台湾に尽くした日本人のもろもろの美徳の総称を指す言葉です。

 

そうした台湾人に愛されている日本人の代表的な一人に八田與一がいます。八田與一は、台湾で知らない人はほとんどいない、台湾の教科書にも載っている人です。

 

八田の業績は、不毛の地と言われた台湾の南、嘉南平野を豊かな農地に変えたことです。飲み水にさえ事欠いていた台南の荒れ果てた土地は、米・サトウキビなどが豊富に獲れる、台湾一の穀倉地帯へと生まれ変わりました。十年の歳月と莫大な経費を費やして一九三〇年に完成したダムは、堰堤の全長千三百メートル、高さ五十六メートル、灌漑面積十五万ヘクタール、当時、東洋一の規模で、八十年以上経った現在も現役のダムとして機能を果たしています。

 

家族も含め、千人以上の人間が住んでいた烏山頭の宿舎周辺には病院、学校、娯楽場(映画鑑賞、弓道場、プール、囲碁・将棋、玉突き等々)も作ったそうです。台湾人も日本人も区別なく一緒に働き、学び、遊んだといいます。

 

昨年、私は八田與一の銅像のある烏山頭(うざんとう)ダムに行ってまいりました。ちょうど五月八日の慰霊祭(命日)から三日後で、周りは沢山の花に囲まれていました。

 
公民館長時代(2014年ころ)に生涯学習だよりのコラムに掲載したものです。

バスク人のカンドウ神父

戦後の親日派の外国人というと、カソリックのカンドウ神父を思い出します。フランス人ですがフランスの中でも独特な言語や文化で知られるバスク人です。

たまたま昨年、カンドウ神父の書いたものを読みました。「ふたつの国の関係がうまくいくか悪くなるかということは、その両国のわずか百人ほどの人間次第できまるのだ」という哲学者の言葉を引きながら、

「国と国とのつきあいが百人の人間次第でできうるなら、私はマダム・フーシェと共にフランス側の百人の一人たらんことを、喜びと誇りをもって宣言するものである。(S・カンドウ著「バスクの星」)

同じ本には、自殺志願の大学生と富士山の麓で会った話しが載っています。

自殺志願の日本青年は富士の樹海に入って自殺しようとしているところをカンドウ神父に出会います。何の希望も見出すことのできない戦後の廃墟の日本で、青年は自らの命を絶とうと富士にやってきたのです。

「君、こうやって黙って見ていると、いい俳句でもつくれそうじゃないか」

カンドウ神父が何とか富士の美しさに目を向けさせようと努めると、青年は富士を見つめながら5分、10分、ようやく落ち着きを取り戻します。数日後、青年は富士を詠った俳句を送ってよこします。

「現代の多くの若い日本人は、一種の劣等感の犠牲者となっているのではあるまいか。今まで尊重していたすべてが、急に無価値になったと考えることは本当に嘆かわしい。(中略)

今まで価値あるものとされたすべてが、敗戦によって無価値なものになったという考えは、改めねばならぬ。日本人の美点は依然として美点である。人間の世界では時代によっていくらか変化するものはあるが、人間そのものが本質的に変わることは決してない。」(S・カンドウ著「バスクの星」)

昭和25年ごろから書かれた随筆をまとめたこの本の出版は昭和31年です。日本の凡百の評論家や思想家よりよほど日本の敗戦の意味を理解し、日本人への愛情と激励に満ちています。

戦後の日本人は、米国の自由と民主主義を受け入れながら、かつての日本人がヨーロッパで絶賛された礼儀や伝統を重んじる「日本的感性」を失ってきたかも知れません。

しかし、現在の世界における日本文化の影響は一般の日本人が考えている以上です。私は日本にも日本人にも大きな未来を感じています。

靖国神社や皇室制度が「クール」だという時代が来るかもしれません。

「天皇さまが泣いてござった」(しらべかんが著)は昭和天皇と日本の伝統、日本の民衆との絆、日本の歴史を考える上で貴重な本だと思います。

特に表題の「天皇さまが泣いてござった」という文章はいつ読んでも涙が止まりません。

戦後の焼け野原を思えば、日本は豊かになりました。命さえ繋ぐことができればそのうちなんとかなります。

理念ではなく、もっとリアルに生きることに貪欲になる、そういう動物的なたくましさが必要な時代になってきたのかも知れません。

東日本大震災の傷がまだ癒えない2014年ごろメールマガジン「頂門の一針」に掲載されたものです。

ねぷた祭りは地域の教育力

夏の風物詩であるねぷたの季節がやってきます。
ねぷたは青森県のものと思っている方がいるかも知れませんが、今では全国にネプタが広がっております。

一八〇七年、幕府の命令により北辺警備のため。斜里地方の警備についた百余名の津軽藩士が寒さと栄養不足により、ひと冬で七二名も死亡するという事件がありました。 
このような史実に基づき、斜里町では一九七三年(昭和四八年)に津軽藩士殉難慰霊碑を建立し、毎年町民の手で慰霊祭を行っていました。
そのことが縁で、弘前市と「友好都市の盟約」を結び、 この盟約を記念して二基の扇ねぷたを運行したのが始まりとなり、以来年々規模を増し大小十五基余りのねぷたが運行され、知床地方最大のお祭りになっています。 

群馬県の旧尾島町は関ヶ原での戦功により加増された津軽藩の飛び地だったところです。津軽藩二代藩主信牧(のぶひら)公の側室の辰子(又は辰姫、西軍石田三成の三女)はここで三代藩主信義公を生みました。
昭和六〇年、、このことを知った弘前の青年会議所メンバーが尾島町を訪れたのがきっかけで親交を深め、今では十数台のねぷたが運行され、二日間で十万人以上を集める関東有数の祭りになっています。

数年前に、特攻基地として有名な鹿児島県の知覧に行った時、旧知覧町役場のスクリーンに大きな扇ねぷたが映っているのを見ました。平賀町(現平川市)のねぷたでした。平賀町(現平川市)と知覧町(現南九州市)は平成2年から交流を行っており、平成8年から知覧でねぷた祭りを開催しています。今年も五台の扇ねぷたが運行されます。

平成一七年度に文部科学省が「地域の教育力に関する実態調査」報告というのを公表しています。この中で、地域の大人が子どもと接する機会をより多く持てるようにすることが、地域の教育力の向上に非常に重要な要因となると考えられる、と報告されています。

地域の大人が子どもと接する機会といえば、その一番身近な例のひとつはお祭りだと言われています。かつては三十台以上もあった大鰐ねぷたまつりも昨年は年々数を減らし昨年は十二台でした。

どうかお子さんをお持ちの方はお子さんと一緒に積極的にねぷたに参加してください。
そして、お子さんがいない方も、ねぷたに参加して地域のお子さんと触れ合ってください。
ねぷた祭りは、地域全体で子どもを育てる、と言う地域の教育力のシンボルなのです。

公民館長時代(2014年ころ)に生涯学習だよりのコラムに掲載したものです。

「語りえぬもの」

ルーマニア出身の世界的な宗教学者ミルチャ・エリアーデによると、いわゆる「無神論」というものは「宗教的感情の一形態」にすぎないそうです。人間というものは本質的に宗教的であるということです。

高度に近代化された現代社会においてさえ、我々の日常は宗教的儀式に満ちていて、無神論的な考えを自覚的に持っている人間でさえ、いろいろな宗教的儀式に無意識に従って生きています。

人は生まれるとたくさんの人に誕生を祝ってもらい、百日のお食い初めの儀式、桃の節句、端午の節句、誕生日の祝い、七五三、成人式、結婚式、葬式・・・・。

新年を祝うのは世界中で宗教を問わず行なわれており、新年の祝いが「死と再生」「生命の更新」の象徴であるというのは広く知られています。

しかし、現代人は、それらの儀式やしきたり、「日常の習俗や伝統」を軽視してきたことにより、精神の安定を失い、価値観を喪失し始めているのかもしれません。

伝統的な習俗や行事を総て拒否して唯物的に生きられる人間は貴重かも知れませんが、ただの馬鹿でしかないでしょう。

「人知を超えたもの」「人間の有限性」について謙虚な気持ちを持っていれば、「唯物論」や「無神論」の限界がわかります。

小惑星からのサンプルリターンという最先端科学の集積である「はやぶさ」の川口教授でさえ、「はやぶさ」が大きな試練を迎えたときにイオンエンジンの中和器がうまく働くようにと、全国を探して、標記が同じ「中和」(ちゅうか)神社のお札をもらってきた、というではありませんか。

「人事を尽くして天命を待つ」ということばは、人間の限界とそれを乗り越えるすべを語っているようです。

二十世紀最大の哲学者の一人といわれるウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」の最後に次のように書きました。

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」

公民館長時代(2014年ころ)に生涯学習だよりのコラムに掲載したものです。

永遠の傑作

ソーヴール・カンドウ(カンドウ神父)はフランス人ですがフランスの中でも独特な言語や文化で知られるバスク人です。昭和4年に東京大神学校初代校長となり、第二次世界大戦では故郷のフランス軍に入隊して、戦場で瀕死の重傷を負いました。しかし、奇跡的に回復して再来日を果たします。日仏学院教授、明の星会事業団の指導者として、特にエッセイや講演を通して戦後日本の精神的な支援者として活躍され、昭和30年に惜しまれながら日本で亡くなりました。享年58歳でした。

彼の人格の高潔さに引かれてカトリック信者になった日本人も少なくないといわれています。日本人を愛したカンドウ神父はまたたくさんの日本人からも愛されました。葬儀が行われた上智大学の聖イグナチオ教会では、堂からあふれた人々が雨の中にひざまずいていたそうです。

日本女性への限りない愛情が感じられる、著書名にもなっている「永遠の傑作」と言うエッセイ全文を紹介します。(死後50年以上経って著作権は消滅しています。念のため)

以下「永遠の傑作」

「日本の母」と言う語はひところ妙に力んだ偏狭な意味で使われていた。
しかし真に尊いものは必ず永遠と普遍に通じるはずである。

私信であるがよく人に示す一通の手紙がある。それは一殺人犯が改心の経過をしるした手記である。獄舎に彼と涙の対面をしたその母親の最初の言葉は、怒でも恨でも泣き言でもなく「あなたを愛し方が足りなかった母さんが悪かった。ごめんなさいね」とのやさしいわび言だった。

"私は実にこういう母を持っているのです"と叫ぶ手紙は、文字まで涙にふるえているようである。一世を騒がせたこの殺人犯を真率謹直な青年に一変せしめたのは、母の純愛のひと言であった。社会もうらまず悪友もとがめず、ひたすらわが身に罪を着る母の心であった。今も断罪の日の予見におののき面会日ごとに遠路を急ぐ母、身をもって世にわびるがごときその小さな姿に、いたいたしく崇高なものを感じるのである。

先日亡くなったある女流作家が、最後にはお母さんとよんで一途に頼りにしていた付添の老女は、一年前まで赤の他人だったと言う無学な田舎婦人である。肉親も及ばぬ献身ぶりは今なお目に残る。どうしてあれほど尽くせたのかとたずねたら「前にも子どもをなくしたことがあるもんだでね」とただしんみりと答えた。

無私の愛は愛の極致である。母の心は造物主の傑作だ、とある学者が言ったが同感だ。
かかる尊い例を日常に無数に秘めている日本女性は……時に一部が遠来の客たちにどう見られようと……世の光であり人類の誇りである。

公民館長時代(2014年ころ)に生涯学習だよりのコラムに掲載したものです。

「青春」の詩

幻の詩人といわれた米国人サミュエル・ウルマンが七十代で書いた「青春」という詩があります。米国のリーダーズダイジェストに掲載され、連合国総司令官を務めたダグラス・マッカーサー元帥が座右の銘として執務室に掲げていたことで、日本でも広く知られるようになりました。戦後の名だたる経済人が座右の銘とし、昭和四十一年春、松下幸之助は「青春」の詩を印刷し、額に入れて、全国の販売店、販売会社、代理店に贈呈したそうです。
又、ロバート・ケネディーがエドワード・ケネディーへの弔辞にこのウルマンの詩の一節を引用したことも有名な話です。
「青春は年齢ではなく心の持ちようである」というウルマンの「青春」の詩は人類の普遍の真理でしょう。八十歳、九十歳になっても、若々しい好奇心と憧れを持ち続けていたいものです。


青  春
サミュエル・ウルマン作 岡田 義夫訳

青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相(ようそう)を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦(きょうだ)を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。
歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や狐疑(こぎ)や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰(あたか)も長年月
の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥(あくた)に帰せしめてしまう。

年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる
事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の
如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる、
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる、
希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして
偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。 
これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷(あつごおり)がこれを堅くとざすに至れば、この時にこそ
人は全く老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。